感情の平板化
おかしいなと感じたら、まず最寄りの医療機関へいってみましょう。
喜怒哀楽などの感情の変化が少なくなることをいいます。また、他の人の感情に共感する、ということも少なくなります。
感情の変化とは、何もない状態から、例えば楽しいと感じるまでの移り変わりを指します。きっかけとなる出来事(刺激)の大きさとは関係ないので、ちょっとしたことでは楽しくないけれど、大きなイベントがあれば楽しい、ということを指すものではありません。 例えば
- 今までは羊羹を食べるととても喜んだのに、今はあまり喜ばなくなってしまった
- 今までは工事の騒音に対して「うるさい」と怒ってブツブツ文句を言っていたのに、今は何も言わず、「工事の音うるさくないですか?」と聞いても興味なさそうな様子をしている
- 昔からの知り合いの訃報を聞いても、「ああ、そう」といった感じで悲しみや残念に思うような反応がなくなってしまった
- 以前は音楽を聴くのも歌うのも大好きで楽しそうだったのに、今は好きだった曲を流しても、一緒に歌っても楽しそうではない
- 今まではよく人の話を聞いてもらい泣きしていたのに、今は心を動かされなくなってしまったようだ
などということがあります。
ただし、他に別の原因があって、そのために今まで感じられていたことに気付きにくくなっていることもあるので注意が必要です。 例えば
- 味覚の変化があって、今まで好きだったものが美味しいと感じられない
- 耳が遠くなったため、音が聞こえづらい
- 昔からの知り合いの名前を聞いても誰だか分からない
- 入れ歯が合わなくなって歌うのが苦痛
- 長い話をされるとなかなか内容を理解しにくい
などということも考えられます。
ひとつの事柄だけを捉えるのではなく、全体的に感情の平板化の傾向があるかどうか、といった見方が必要であると同時に、何か身体に変調はないかどうかを探ってみることも大切です。
感情(表現)は、自己表現する方法のひとつであると同時に、人と人を繋ぐものでもあると思います。「喜ぶ顔を見たい」と願って好きな物をプレゼントしたり、悲しいことがあれば共に涙を流し合うことで癒されたりします。自分に近い存在の人であればあるほど、そのような繋がりは重みを増すように思います。それが通じ合わなくなってしまうことを考えると胸が苦しくなるし、やりきれない思いに潰されそうになります。でも、人って素晴らしいなぁと思うのは、人の気持ちを推測することができることです。以前のその人を知っていればそれに準じて、また、知らなければ「自分ならこう感じるだろう」と考えられます。感じ方は人それぞれなので、もしかしたら間違っているかもしれないけれど、同じ間違ったことをしてしまっても、「自分なら嬉しい」と思ってされたことと、「よく分からないけど皆やってるから」と思ってされたことでは、随分差があるように思います。
また、喜怒哀楽の感情の変化があまりなくなってしまっても、快い・心地よい(快)と気持ち悪い・心地悪い(不快)はどこかで感じているように思います。(HR)